社会の問題を解決するソリューションを見出すトーク配信番組「アートリーアカデミア」、この回のテーマは「YouTuberの飽和状態」
YouTuberが一つの職業として認知されるとともに、そこに夢や憧れを抱く人は増え続けています。一方で企業としてもYouTubeの活用で自社のアピールをしたい、さらにはYouTubeで収益を上げたいという発想も、特に驚きはない当たり前のこととなってきました。
その一方で、YouTubeのなかでどう存在感を出せばいいのか。時にはより過激に、その過激さが法を犯すほどの事例が見受けられるようになりました。しかし、飽和状態のYouTubeのなかでその存在感を出すのは容易ではありません。
誰もが気軽に発信できるようになった今、インターネットにおける動画配信はどうあるべきなのでしょうか。
当事務所の税理士・原辰彦は番組の中で飽和状態のYouTubeについて語っています。
注目を集めるために過激化してますよね───
「注目を浴びたい・見てもらいたいっていうのが前提のことなので。善悪だったり、良い・悪いを考えないっていう部分が、モラルとして低いんじゃないのかっていう投げかけだと思うんですね。人の気持ちがどうなろうが知ったこっちゃないっていう。」
若い人ほどそういう傾向にある?
「年齢関係なくなんじゃないのかな? って私は思うんですよ。例えば、YouTubeで広告もらう、もらうがために何でもするっていうのが、なんとなく当たり前の世の中になってる気がする。」
「(炎上したり)バッシングがあっても叱られることないじゃないですか、やってる本人は。だからそこの部分で、じゃあモラルって何なの? って部分を、世の中が叱ってくれる、誰かがじゃなくて。YESかNOか、罰かお金みたいな、極端なことになっている気はします。」
動画をアップして思うこと───
「YouTubeってもともと、公共性を求めてやってるものですよね。表現としての部分をいろんな人に知ってもらう。僕こういう風に思うんだけど、私こういう風に思うんだけど、見てみて! っていうのが、ことの発信だと思うんですよね。そこに、広告料収入だったりフォロワー数だったりっていう、付加要素がついてきた。そこの部分は、悪くはないと思う。」
どこで誰が線引きするのか───
「題目だけ過激にすれば、それを見る人が増えるわけです。芸術でやってる人と、そうじゃない人。その差別の線引きって実は難しいじゃないですか。昔で言う低額フィルム、低予算フィルムってありますよね。例えばブレア・ウィッチみたいな。ずっと8mmカメラで撮って行って、最後登場人物みんな居なくなりましたみたいな。あれだって、YouTubeっていうものがなかったから、短編映画とかでやってたやつが広がって行った。じゃあそれが安くやってるから、ある意味過激だから良いか悪いかっていう線引きがないのがすごく怖いなって。見る側の良心にゆだねられるっていう。」
チャンネル登録者数の多いYouTuberが必ずしもモラルが高いわけではないという状況を生み出しているのは、過激な動画を拡散する受け手が数多く存在するからなのですが、だからといってその状況を憂いても何かが変わるわけではありません。
かつては地上波テレビもコンプライアンスなどほとんど存在しない過激な時代がありました。今思えば、昭和のテレビ番組と今の過激なYouTubeを天秤にかけたら、どちらがモラルが低いのかわからないものもあるでしょう。
自浄効果には限界がある…どころか、自浄などというものはないかも知れません。
地上波テレビのコンプライアンスが厳しくなったように、YouTubeに何かが介入する時がやってくるかもしれません。いつまでも今の状況が続くかどうかは未知数。企業でも個人でもYouTubeを収益源して事業を考えている、運用しているのであれば、そのリスクも考えなければならないかもしれませんね。
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